2003年08月12日(火)
「トーク・トゥ・ハー」に悩む夏
もう数週間も前の話になるのですが,7月の末にスペインの映画「トーク・トゥ・ハー」を見てきました。かの「オール・アバウト・マイ・マザー」の監督が挑んだ最新作で,マトリックスだのターミネーターだのと物騒な映画の影で,それなりに話題になっていた作品です。 個人的には,オール・アバウト・マイ・マザーも映画館で見たこと,その結果がなかなか難解なテーマであったことが気になって,今回の映画もやはり映画館で見ておこうと,そう考えたのでした。大体スペイン映画って,絵そのものが綺麗ですしね。 ネタバレ覚悟でストーリーをダラダラと書いてはみたのですが,やっぱり説明するのはまずいと思うので割愛します。 で,この映画,非常に複雑でした。1回くらい見ただけでは,自分の考えがまとまるような,生やさしいものではないようです。 この映画は,いわゆる「感動もの」として扱われておすぎもピーコも泣きまくっているわけですから,やはりそういう短絡的な側面も確かにあるのでしょうが,私は感動したと言うよりも,そのテーマの難しさにどんどん深みにはまる感じでした。 私の結論は,「見た人の期待したレベルに,期待した結果を与える映画」でした。 私のようにテーマの難しさを追いかけてしまったあわれな人には底なしの難しさを,感動ものとして涙を流したい人にはそれも可能,とにかく,それぞれの多様な求めを,ある意味できちんと満足させうる映画であるという,非常に不思議なものでした。 私の視点ですが,この映画で論じられるべきポイントとしては,
・若く美しい昏睡状態の女性を世話した看護士は,献身的なのか変質者なのか? ・看護士の願いである昏睡状態の女性と結婚は可能なのか?彼女の意志はどうなるのか? ・その女性をレイプし,妊娠させた看護士の罪悪感はあるのかないのか?果たして社会は彼に共感を示す人を拒絶するのか? ・法的には「レイプ」であっても,それは「セックス」とは絶対に呼べないものなのか?同意が条件なら間違いなくレイプだが,では看護士は彼女をレイプした,と思っているのか?看護士は,彼女が「同意した」もしくは「同意するはずだ」と信じて疑わなかったのではないのか? ・看護士が「同意するはず」と考えたのであれば,その理由は他の人には絶対にできない献身的行為を発生源としているので,よくある勘違い男の「自惚れ」でもなければ「思い上がり」でもなく,ここに薄っぺらな男の身勝手さとは一線を画すものがあるといえないか? ・逮捕された看護士が真実を知らされないまま,獄中で自らの命を絶った理由は絶望だけなのか? ・彼女が奇跡的に意識を取り戻せたのは,結果として看護士の献身的な看護のおかげだったのだが,彼女はそれを知らない。果たしてそれでいいのか?彼女はこの上なく愛されていた事実を知らないのだ。 ・その上彼女は,自らがレイプされ,その上子供が死産だったことを知らない。それでいいのか? ・彼女がそれを「レイプ」と思うか「セックス」と思うかを問わずに済ませているが,その結論を,社会は最初から決めてかかっていないだろうか?問い直す事すら罪だと避けていないか? ・看護士も,彼女の奇跡的な復活を知らずに自殺したが,知らせなかったことは正しかったのか? ・結局の所,看護士は自らのしたことを非難されることはあっても,その多大な功績に感謝されることは一度もなかった。おそらく映画を見た者も同じだろう。しかしそれは正しい社会なのか? ・女闘牛士は女であることで闘牛の世界で孤独であり,その恋人は愛する人に死に別れ,その上昔の男とよりを戻したことを知らずにいた,看護士は復活した彼女にも知られず,社会からも黙殺され一人で死んでいった。みんなひとりぼっちになってしまうことは,この映画のテーマとしてふさわしいのか。
いろいろ書きましたが,どれもとても難しいです。というのも,答えは人それぞれだろうと思っている一方で,みんなその自分の答えに自信が持てないからではないかと思います。 意識を取り戻すという半ば絶望的とも言える夢を追いかけ,愛する女性を献身的に看護する気持ちは,私にはとても理解できます。これが恋人同士であったり夫婦であるなら,美しい物語で終わったでしょうが,今回の問題は一方的であることです。 いくら看護士の資格があるとはいえ,自分の人生をいつ目覚めるか分からない人の看護に費やせるというのは,いわば自己犠牲の精神であるわけですが,相手はそれを望んでいるのか望んでいないのかわからない。 わからないですが,自分が相手のことをとても大事に思っていたら,その人のために尽くそうと思うのは自然です。まして,彼女は目を覚ましません。自分のしたことが彼女には感謝されることはほとんど期待できない中で,それでもなお大事にするというのは,自分の人生はどうなってもいい,この不幸な愛する人に自分の出来ることを精一杯やろう,という尊い決意の表れだといえないでしょうか。 看護士の資格を濫用して,彼女に近づいたストーカーという見方も出来ますね。しかし,彼女はその「ストーカー行為」によって,復活することが出来ました。 美しくないのは,その「自己犠牲」が,見返りを期待したものであったことです。看護士は,彼女の復活だけを望むのではなく,(相手の意志を決めてかかってあるいは相手の意志を無視して)妻にしたいと思いました。さらに,自分の性欲を満たす道具にもしてしまいました。 この行為の意味するところは難しく,客観的には「自分勝手な利己的な行動」と判断できることであるわけですが,相手も自分のことを求めているだろうという思いこみから来たものであるとすれば,こういうおよそ自分勝手な考えも彼の中では正当化されます。 なぜ,彼が,意識のない彼女が自分を拒むかもしれない,と疑わなかったのかと言えば,それはやはり,彼女にとって看護士彼自身の存在が必要不可欠な者であったことを,彼自身も自覚していたからに他なりません。 つまり,同じように看護されるにしても,仕事として淡々と看護されるより,愛されながら大切に看護される事の方が,幸せであるはずという,もはや疑うべくもない人間的な心情が,我々にも彼自身にも動かぬ「真理」として大きく横たわってしまっているのです。 ここまで考えると我々には,ふと気付くことがあります。愛されながら看護されたいという真理と,望まない相手に看護されることが苦痛であるという真理の2つが,矛盾をはらんで共存するのです。果たしてどちらが望ましいのか? それでも自分を慕ってくれている人が心を込めて自分を大事に扱ってくれることを幸せだと考えることはできないのか?機械的に世話されることはそんなに幸せな選択肢なのか? 自分の愛した人に愛されることが最上であることは言うまでもありません。では,自分から愛した人がもしもいなければ,自分は他の人からの好意をすべて拒絶し続けなければならないのか,言い換えれば,ひとりぼっちになるのは,自分が誰かを積極的に愛していたかどうか,という事実によってのみ決まってしまうことなのか? 私には答えは出せそうにありません。 出さなければならないことなのか,それもわかりません。 この映画で,もう1つ印象に残っていることがあります。それは,「ありがとう」がとにかく多いことでした。いちいち字幕に出ないありがとうが,本当に本当にたくさん出ています。些細なことでも感謝をするのがスペインの人の習慣だったら深読みのしすぎですが,こういう映画だからこそ,感謝の気持ちをこんな言葉でちりばめているのかも,しれません。
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